これはあまり言いたくない(書きたくない)のだが、『器』の話をしよう。
独り言だと思っていただいていい。
小田原高校(レベル)に行ける器なのか、西湘高校(レベル)に行ける器なのか、それとも足柄(レベル)か、はたまたそれらには届かないのか。
日頃の素行を見ていれば、ある程度は分かる。

いつもは数字を使って話をしているが、今日のは違う。
これまで生徒達を見てきて感じたことだ。

誰でも簡単に分かるのは、『英単語』や『漢字』これに対する取り組みだ。
小田高レベルは、言われなくてもやる。
西湘レベルは、言われればやる。
足柄レベルだと、言われると渋々やる。
それ以下になってくると、言われても言い訳をしてやらない。

小田高レベルの子が言われなくてもやるのは、別に彼らがそれらを面倒だと思っていないということではない。
他の生徒達同様、面倒だし、出来ればやりたくないとも思っているだろう。
それでもやる。
それは、不可欠だと理解しているからだ。
そんなところで足踏みしている場合ではないと、先を見ているからだ。

西湘レベルの人間が言われればやるのも、心の中に『いつかはやらなければならないものだ』という思いがあるからだ。
だから、言われたタイミングで、ここまでが限界だと覚悟を決めてやる。

渋々やる、何とか誤魔化そうとする、それでもやらない、ここが、偏差値50の壁だろうか。

ちゃんとした言葉で言うなら、『基礎学力』が有るか無いかだ。

『因果応報』
この世の中は等価交換。
良い行為には良い結果が、悪い行為には悪い結果が跳ね返ってくる。
何もしないで手に入れられるものなど何もない。
自分が手に入れたいものを得る為に、それに見合った努力をする。
努力に見合った結果しか得られない。
だから、より多くの努力を積み重ねる。
基礎学力が有る子は、それを理解し自ら前へ進むことができる。

だから、嫌なのだ。
単語テストや漢字テストをやるのは。
こちらがやらせないとやらない、その時点で、小田高に行く器から漏れてしまう。
勘違いしないでほしいのは、ここで言っている単語テストや漢字テストは、通常授業の中でやる、授業時間を割いてやる10語程度のテストのことだ。
定期テストの1週間前や2週間前、3週間前には、テスト範囲全部(150~200語)の確認はする。
10や15程度なら、直前に見ればある程度できてしまう。
そして、その場をしのいで、翌日には忘れるというものだ。
何と無意味な時間だ。
授業の時間を割いてまでやる価値はない。
本当にやりたいのは、長期的に覚えるということ。
瞬間記憶の競争ではない。

かと言って、自主的にと待っていたらやらない子はまったくやらない。
葛藤だ。

最も苦労しないで覚える方法の1つが、出会いの回数を増やすということなのだが、なかなか伝わらない。
子供達には、一度も同じクラスになったことがない同級生や同じ学校にいる他の学年の生徒を例に話をすことがある。
一度も同じクラスになったことがないのに、一度も話したことがないのに、その同級生の顔や名前を知っているってないかい?
同級生だけじゃなく、他の学年にも、そういった子はいないかい?
いるだろ。
それ、覚えよう覚えようって、意識して必死に頑張った訳じゃないよな。
知らないうちに、勝手に覚えていたんだろ。
それが、最も負荷のない覚え方だ。
じゃあ、何で覚えたんだ?
『繰り返し』だよ。
自分が意識をしなくても、何度か目にする。
そして、その子のことを誰かが呼ぶ。
それを何度も繰り返しているうちに、勝手に覚えちゃったんだよ。
サブリミナル効果とは少々違うが、無意識に苦も無く入り込むという点は同じなのか?
まあ、正しい名前はどうでもいいが、とりあえず『出会いの回数』なのだ。
もはや最初は無意識でもいい。
ただ毎日、1回練習するだけの時間を取る。
そして、続ける。
そうすれば、想像している以上に多くのことを覚えられる。
1つの単語や漢字を覚えようと、何十回も書いて練習する必要はない。
ただ機械的に、1日1回出会う(練習する)だけだ。
テストが近づき、それでもまだ覚えられていないという物があった時、それだけを集中して練習すればいい。
これが一番ラクなのだが。

まあ、毎日ができないのだろう。
毎日でなくとも、2日に1回、3日に1回でもいいのだが、それもなかなか継続できないのだろう。
『基礎学力』
これは、何も読み・書き・計算だけを意味するものではない。
こういった日々のルーティーンができるかどうかも基礎学力だ。

小田原高校の塾対象説明会に行ったとき、校長先生がしきりに『基礎学力』と熱弁していたのを覚えている。
とにかく、基礎学力がある子をうち(小田高)に受検させて欲しい。
(基礎学力があれば)あとは我々が育てるから。
最後に伸びるのは、基礎学力がある子だ。
そういった内容のことなどを、熱く熱く話されていた。
そんな校長先生のお考えもあり、小田高の入試での配分は、内申(3):学力検査(5):面接(2)から内申(4):学力検査(4):面接(2)に変わったそうだ。

校長先生が『基礎学力がある子をうちに』とおっしゃっているのには、もう1つ意味があると思う。
それは、高校生になってからそれを養うのは困難だということだろう。
性格と同じで、これは歳が上がれば上がるほど、修正するのは難しくなる。
我々大人になると、もやは無理と言ってもいいかもしれない。
毎日勉強する、決められた期日までに宿題をやる、言い訳をしない。
こういった、人間としての根幹は、なかなか変えられるものではない。
3年間という高校生活の中でそこからでは、とても目指している一流大学には進学させられないということもあると思う。
だから、基礎学力のある子を育ててくれと、我々にお願いしていたのだと思う。
ただ、中学生のこれもなかなか大変なものだ。
悪い癖がついてしまってからでは、自我の芽生えた中学生の軌道修正には時間がかかりすぎる。

結果、大切なのは小学生のときの過ごし方だ。
しかも、低学年だ。
高学年になってしまうと、ある程度その子の性格は固まってしまう。
低学年のうちに、正しいことと正しくないことをしっかりと教え込む必要がある。
大人が毎日仕事をするように、子供も毎日勉強する。
子供にとっては、勉強が仕事だ。
大人が毎日している勉強(仕事)は、答えのないものとの戦いだ。
それに比べ、学生の勉強とは答えのある勉強、どれだけ簡単なものか。
ルールは守る。
宿題の期限、授業中の私語、他人に迷惑をかけない、協調性をもつ。
目上の者への敬意。
挨拶、両親や先生や大人といった人達から何かをやりましょうと言われたときに素直にやれる。
挨拶ができたからといって勉強ができるわけではない、しかし、逆はほぼ間違いない。
挨拶ができない人間で、勉強ができる人間はまずいない。
小さな子供にここまで求めてもしょうがないが、最終的には『道理』だ。
常識、これは時が変われば変化する。
しかし、『道理』これは不変だ。

こういったことが身に付いていないと、後々勉強どころではなくなる。
小学生、特に低学年の子供達にとって、『お母さん』という存在は特別だ。
どんな子供も、無条件で降伏だろう。
基礎学力の中でも、その根幹となるこれらのことを教えてあげられるのは、お母様たちだけではないでしょうか。
小学生のお母様、基礎学力の養成は今です。

富水教室の山田でした。